めざせ、Q思考

専門知識は「賞味期限」が短くなってきており、

その価値も少しずつ低下している

「質問」と「答え」を上場株に例えると、現在のような環境では、

質問の値段が上がり、答えの値段が下がっているといえるだろう。

 

ハーバード大学のトニー・ワグナー教授(教育学)は

「いま、知識はコモディティー(一般化して価値が薄まったもの)化

していている。 答えはいつでもどこでも手にはいるのだから」

と言っている。

 

私たちは膨大な知識に埋没してしまっているので、ワグナー教授の

同僚で、イノベーションが専門のポール・ボッチノ教授によると

こうだ。

 

「客観的事実やデータといった明示的な情報の価値は落ちている」

 

本当の価値は、 「問いの答えを追及する際に、

その知識をどう生かせるか」にあるのだ。』

 

(Q思考;ウォーレン・バーガー)  

 

 

よく試験とかで、インターネットを使用すると不正だとか、

何かのレポートで、インターネットからのコピペがダメだ

とか言われていますね。

カンニングはよくないことですねと、ニュースなどでも

取り上げられています。

 

もう少し現象を掘り下げてみますと、

そもそもコピペで点がとれてしまうテストに意味はあるのか?

ということがあると思います。

インターネットに落ちている情報をテストして、

記憶していることに意味があるのかということです。

 

だれでもスマホで検索すれば(記憶していなくても)

直ぐ調べられますし、 それこそ昨今のAIの力で簡単に

代替えできるものなのかなと。

人間でこそできる思考力が重要なのかなと思います。

 

だからさっきの試験の例でいえば、 たとえば「思考力」「発想力」を

試すテストにしてほしいかなとおもうのです。  

 

私も学生時代、ちょうど高校生くらいからでしょうか。

ただ覚える学校の勉強が嫌で、その教科に対して

「自分としてどういう意味がつけられるか」

ということを意識していたように思います。

 

そんなことをしているとテストの点は取れなくなるのですが、

そういった考えることが、自分なりの解釈をつけるのが

大事だと思っていたのです。

 

そうしていると学んでいるのは教科そのものではなくて、

たとえば「思考方法」 であったりするので、

他のものを解釈するのに役に立ったりします。

 

今一度、答えでなく質問の価値に着目してみましょう。

 

今日も成功をお祈りしています、お読みくださり感謝します。

ムハンマド・ユヌス氏からの伝染した「熱量」

2006年のことだった思います。

当時ノーベル平和賞をとったばかりの

ムハンマド・ユヌス氏の講演聞く機会がありました。

 

 

ムハンマドさんは、祖国のバングラデシュの貧しい人たち、

一日1ドル以下で暮らす人たちに、 少額貸付を行う、

マイクロクレジットの仕組を創り上げた人物です。

 

 

一般的な銀行の概念を覆し、

彼が立ち上げたグラミン銀行は世界中に広がっています。

アメリカに留学していた彼は、祖国の貧しさに心を痛め、

エリートコースの道を断ち、 祖国で事業を立ち上げたのです。

 

講演の最期に、日本のオーディエンスへ向けて、

 

「日本の若者は何にでも挑戦できる

「こんなビジネス環境に恵まれた国は世界中でもめずらしい」

人生は一度しかない。挑戦せよ

後悔のない人生を送りなさい」

 

と熱っぽく語りました。   

 

 

動かされましたね、いま思うと!

社会人なりたての頃で、理不尽な会社員生活で

鬱積していた私は、 吹っ切れて、

これから何にでも挑戦してやる、やれることはすべてやろう

と決意を固めたのです。   

 

つい先日、自分の人生の目的や価値観を洗い出す、

自己啓発ワークの時に、私にとって、衝撃を

受けたこの時のことを思い出しました。

 

今日も成功をお祈りしています、お読みくださり感謝します。

2人の起業家の言葉

ある勉強会の打ち上げの席で、2人の起業家が教えてくれた言葉で、今でも すごく覚えていて意識していることがあります。

 

その席であるすごく高いスキルを持っている人が、

「自分のスキルはものすごく自信があるのだが、

なんか現状に満足できなくてどうしたらいいか」

 ということに対してのアドバイスでした。

 

「いつもと違う道を通ってみたらいいよ。

それがマンネリ化を回避できる習慣になる。

なにかヒントが見つかるよ。」

 

「人の役に立てることを考えてみよう。

そうするとやれそうなことが思い浮かぶ。

そのあとで自分のスキルを使って

人よりうまく出来そうなことをやればいいよ。」

 

その人に向けたアドバイスでしたが、

その時私は自分に対してのアドバイスのように 感じて、

今でも意識している自分の中の大事な言葉となっています。  

 

何か(マンネリ化)しているものを打破したいとき、

新しいことをやる必要があります。

でも最初の第一歩としては、いつも意識していない

習慣になってしまうところから変えてみること。

そして「人の役に立てること」を考えることで、

自分が提供できる価値に視点が向いて

アクションがとれるようになることだと今では理解しています。

 

そのあと私もより高いところを目指し、

スモールビジネスや株式投資に参加し、

単なる会社員という環境を少しずつ変えていけました。

 

2人の起業家の言葉を今日もかみしめたいと思います。

今日も成功をお祈りしています、お読みくださり感謝します。

情報の「取捨選択」

みんなが、知識をいかに覚えているか、

テストという限られた環境で(先生が) 意図した使い方ができるか、

が今まで必要とされていることでした。

 

典型的なものが学校のテストや受験といったことですね。

そして社会でも「知識人」という、

いわゆる知識の量を誇るひとがもてはやされていました。 

 

でも録画機器が発達したり、インターネット上でだれでも

情報にアクセスできる時代になってきて、 

 

【情報を取捨選択できる】

 

能力の重要性が高まってきてるのではないでしょうか。

 

 

日本POP音楽界で一斉を風靡した

(僕の時代の伝説的プロデューサーです)小室哲哉さんが、

何年か前に言っていたことがリンクしました。

 

何百曲、何全曲もフリーで聞けたり、手軽に持ち歩ける時代には、

 

「こういう理由でこの曲がいい」

「こういう雰囲気のこの曲がいい」

 

音楽を選別できる能力をもっているひとが活躍する

 

僕は音楽を知っているプロデューサーとして若い人たちに

いい音楽を紹介したい。

といった意味のようなことを言っていました。

 

 

 「自分が役に立った、いいと思った。

自分が役に立ったのだから人にも役にたつはず」 

ということが大事なのですね。 

 

覚えていること・書かれていることをただ出すなら

電子辞書でも機械でもできる。

でも情報の本質を抽出して人に伝えられるのは人間です。

 

 

改めて「情報の取捨選択」をゆっくり考えてみたいですね。

 

今日も成功をお祈りしています、お読みくださり感謝します。

今までになかったお金(資本)の形

最近面白い概念を知りました、「共感資本」という概念です。

当たり前ですが、資本やお金と言うと、普遍的な形、性格を持ちます。

お金に色はない、ということです。

でも共感資本では、「色のある」お金、資本を創出します。


例えば普通の商売でいうと、商品を受け取り、代金を支払う「決済」というのがあります。

そこで取引の正当性・等価の交換が証明され、そこで相互の貸借は消失します。

しかし「共感資本」という中では、取引が行われた後、関係性が続くというのです。


ある人がある地域の1つの商品を買ったとします。

そこから関係性がスタートします。お互い顔の見える生産者と消費者の
関係ができてその後も関係が続いていく。

「あそこのこの商品が好きだから、私は買う。」

流通の整った市場というものが出来てから、無くなってしまってきている特対取引と
いうのを成立させていくというのです。

たとえば野菜でいうと、市場においては
、形が悪かったり色がよくないものが規格外としてはじかれて流通しません。

実際は味も変わらなく、形が不格好でもかえっておいしいものがあるのです。

そういった取引で生産者と消費者が直でやり取りするようになっていくというのです。

 

 

資本という観点でいうと、例えば株式投資において、
基本は利益、収益性が優先されます。

それが共感資本の元においては、

「その事業がどんなものか、自分の納得できるものか、社会性が高い会社か」

という事が優先されます。

自分が納得できるところにお金が使われる、そんな資本の仕組を目指します。


北欧の方では、電力のソース(共有源)を選ぶようなことがあると聞きました。

それは、石油による電力なのか、火力によるものなのか、
また自然エネルギーからなのか。

それぞれに電気の値段は違うけれども、すこし値段の高い自然エネルギーによる電力
を買う事は、消費者の意思として「環境エネルギー」を選んで買っているという事になります。

間接的に自然環境へ投資していることになるのですよね。


効率が優先されて(一時期にはそれは発展のために良かったのですが)、
市場というものが物事を普遍化して見えなくなってしまったものを
もう一度「見えるもの」に変えていくのが「共感資本」なのです。

 


日本を考えると、かつてから経済優先で、とにかくお金を稼げばいい、
自分の資産が増えればいいということで、ひたすらやってきました。

経済の効率という観点で、人々は都市という形で大きな経済圏と生活を作り出した。

商品もサービスも標準化されて、確かに安くていいものは市場に出ている。

ただそれらを提供している人、
特に生産者がだれなのかが見えずらくなっている。

でも経済的にある程度豊かになった現在では、本当に豊かになることとは何だろうか
という事をもう一度皆が考え直してきています。

経済的に豊かになる未来のために今を犠牲にしてひらすらに損得や効率を求めていく。

しかし物質的に満たされながらも、何故か満たされない思いを多くの人が抱えている、
この原因は何だろうと。

その中でもう一度、お金の使い方、それに伴う豊かな生活を考え直そうという、
「共感資本」という概念にすごく共鳴しています。

今日も成功を祈ります、お読みくださり心より感謝します。

甦る「接待」マインド!?

電脳戦でAI vs 将棋棋士の勝負が注目されていました。

少し前まではアマチュアトップレベルまでが機械プログラムの限界と
されていた将棋でも、トッププロでも勝敗が危うい、もしくは負け越している
ような事態になってしまったようです。

その中でAI将棋を分析した記事に面白いものを見つけました。

「AIはいまだに『接待将棋』のようなものはできない(苦手分野だろう)」


接待将棋とは、例えば将棋の強い部下が将棋の弱い上司と対戦したとき、
本来なら完膚なきまでに勝ってしまうところを、勝負は接戦にしつつも、
最後は上司に勝たせるような勝負展開にもっていくような将棋手法です。

難しいのは力を抜いていることを相手に悟られないように、さらに接戦にして、
最後は一手差(ギリギリ)で負ける、ようにコントロールすることです。


とにかく最短ルートで勝つとか、あらゆる勝つ可能性を追及して(パターンを検索)、
相手を負かすというのはできるけど、接待のような「相手に合わせた」きわどい
勝負展開などはAIプログラムではなかなかできないということですね。

 


これから連想したのが、大学の授業です。

そう、その(少なくとも私の通ったA大学のB学部で)授業のつまらなさです。

正しいことは教えているけれども、基本的に一方的で、自分の世界だけで
語られる世界は、生徒のレベルも考慮されていない、こちら目線にもなっていないので、
聴いていてほとんど興味がわかないものでした。

でもそれがTV番組でやっているような「世界一受けたい授業」のようなものであったら、
生徒が興味を惹くような話題から入っていって、そこから少し深い理論にはっていくような
展開の授業になるでしょう。

自分と相手との距離を見て、難しいものを紹介するのでも易しい例を上げてから入っていく。

まさに上記の「接待将棋」のような手法かとも思います。

 


AI時代において、人間にこそできるものが「接待〇〇」のようなことだとも
言えるでしょう。

「相手に合わせたサービス」
「相手に合わせた商品」

そんなオーダーメード的な価値の提供が、
この時代を生き抜くヒントになるのかもしれませんね。


今日も成功を祈ります、お読みくださり心より感謝します。

次世代を意識してみる

私が小学生のころ、高度経済成長の結果、環境がものすごく汚染された
ニュースをやっていました。

確か○○病などの公害病も深刻に報道されていました。

学校でも生物多様性の破壊やその他の環境問題のことなどを教わって、
経済最優先だけではいけないと印象的だったのを覚えています。

すべての経済活動は地球の資源を使って行われている。
その資源は無限ではない、有限で大切なもの。
その資源はこれからの将来にわたり長く利用されるものである。

自分の世代だけでなく、次世代のことにも思いを馳せなければ
いけないと気付いた時代でした。

少し話しは変わりますが、
ユダヤ人の教えが素晴らしいというのは聞いたことあると思います。

ユダヤ人は頭がよく、人間関係術にもたけていて、
どの分野でも、特に経済的に成功する人も多い。

そのユダヤ人が自分の子供に遺すのはその獲得した財産ではなく、
財産を気づく方法、教育だというのですね。

物や財産はなくなってしまうが、教育は生きている限り、
子供の中に残り続けるからです。

私も若いころは自分のことで精いっぱいだったように思いますが、
子供が生まれてから、次世代をより意識するようになりました。

そして私の遺したいものをあえて挙げるとすれば、それはもの・財産ではなく、
やはり考え方・生きざまのようなものでありたいと考えています。

そのようなものであれば子供は自分の個性に合わせて参考にして、
自由にアレンジを加え、人生を生き抜くことができますよね。

もっと言うと、実は社会にも遺せるものがあることにも気づきます。

それは学校などの一見崇高なものだけでなく、例えば自分の考え方・理念などの
情報(本、メディア)やちょっとした芸術作品・発表のようなものも
含まれると思います。

日々様々な事に追われがちではありますが、少し視点を広く見て
次世代まで思いを馳せると色々なことが見えてきますよね。

そんなことも日常のアクションの中に取り入れていきたいと思います。

今日も成功を祈ります、お読みくださり心より感謝します。