「遊び」をつくる

この前、「子供には肩こりがない」ということを何かの番組で知りました。

子供には無駄な動きが多いので、肩が凝ることがないそうです。

確かに子供を観察していると、絶えず何かをしていたり、奇声を上げたり、
なにかしらの「動き」を持っています。

一方分別のついた大人といえば、パソコンを始めスマホで絶えず画面を見ていたりして、首や肩が常に凝ったりしています。

動きが効率化されたためにかえってしこりができたりするのは皮肉なものです。

 

世間では無駄な動き、無駄なものを大事にすることが見直されています。

無駄な時間(スローライフ、瞑想)
無駄なもの(こだわり品(使い捨て品の逆))
無駄な動き

一見「無駄に見える」ことが、実は無駄ではないことが多くあるような気がしてきます。

車のハンドルにも「遊び」というハンドルを回しても反応しない部分があり、
それが運転のコントロールを左右していたりすることを聞きました。

もしハンドルに遊びがなかったら、感度が良すぎて危なくて逆に操作ができないという。。

 

精神的なことにも「遊び」が必要です。

無駄がなく張りつめていそうな精神状態は、張りつめた糸の様にちょっとの加減で、
切れてしまいます。

(ちょっとのことで)怒る、キレる、躁鬱。。

これらはピンと張りつめた糸が余裕がなく切れてしまうような極端な反応です。


逆に余裕のある精神状態は、どこにでも方向転換できる液体のような心持です。

例えば冗句は人生の潤滑油だと思っています。

深刻になりすぎる状況を笑いに変えて、思いつめ過ぎず軽くやり過ごす。

祖国を常に追われ安住の地がないユダヤ人は、歴史的にジョークを多く持っており、
中には辛辣なものもあるが、基本的にどうにもならないことをさらっと笑いでかわす
知恵を大切にしていたようです。

冗句も精神的な「遊び」と言えそうです。

ある意味無駄話ともいう人もいるでしょう。


無駄がなさすぎる現代において、無駄をもう一度見直してみたいです。

今日も成功を祈ります、お読みくださり心より感謝します。

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