読書の効用

学生時代の知人に、

「読書は3度の食事と同じようなもので、意識せず自然に行っているもの。」

という人がいました。

大学時代になって初めて読書の習慣がついた自身としては、
そんな(当たり前の)感覚かと驚いたものですが、今では自然に読書ができるようになってきました。


読書の利点として今回3点を上げました。

①時間・場所を超えて、他人の人生を短時間で疑似体験できる

②自分とは違う分野の人や、違う考え方の人のことを知り視野を広げる(教養)

③有効時間の超効率的活用方法

 

①:まず1人の人間が経験できること、また会える人は限られています。

人についていえば、一日十人と握手したとしても、日本全国の人と握手するまでに
3万年以上かかりますよね。

家族のような身近な人や、普段直接的によく関わる人はおおよそ数十人くらいでしょう。

その中でそんな数の人たちがいて、それぞれの経験・人生があるのです。

本を通して自分とは違う人生を知ることができるのはとても素晴らしいことですよね。

本というコンテンツになっているので、その人がその場にいなくても、
極端には故人のかたでも良いわけですね。

世界を見渡せば、一生渡航不可能そうな外国の方の思想・哲学にふれることも可能です。


②:①とも関連しますが、自分と違う分野を知ることが出来るという事です。

職業でいえば、百人百様の仕事の分野とそのやり方があります。

私は特に趣味の関連から、一芸を極めている人たちの思想・哲学から大きな影響を受け続けています。

達人の特異な視野や考え方は自分の物事に対する視野を大きく広げてくれるからです。


③:これが他の活動に比べて特徴的です。

どんな隙間時間にも本を読むことが出来ます。

移動時間、休憩時間などちょっとした時間を積み重ねることで、
長い時間が一気にとれなくても読書は可能ですよね。

私はスーパーのレジ待ちでも携帯から電子書籍を読んでいます。

飛行機の移動時間などまとまった長い時間が取れるときは、
電子書籍などで手軽に数冊の本を読むことも現代では可能です。

私は電子書籍は、読書における革命(たくさんの本の持ち歩きを実現させた)と
思っています。

本を数十冊同時並行で読んでいくことも可能です。

 

如何でしょうか。

今一度この最強メディアの効能を自覚して、読書を続けていきたいと思います。


今日も成功を祈ります、お読みくださり心より感謝します。

感情を「整える」

朝に色々なことをやるのが自分の中で効率がよいので、
普段は朝早く行動します。

例えば出勤なら始まる1時間以上前には会社の近くにいることが
早い電車に乗ることが10年以上の習慣になっています。


久しぶりにいわゆるラッシュの時間帯の電車に乗る機会がありました。

皆が出勤時間・通学時間に合わせているので混んでいるのは仕方がないのですが、
その空気がよくないと感じました。

特に、時間がギリギリなのか、とてつもなく急いでいる人がいます。

その混んでいる狭い中を人に軽くぶつかりながら猛スピードで移動している人。。

車の運転で例えたら、混んでいる高速をジグザクにかわしていく、
映画のカーチェイスさながらです。

人相も良くなく、もう一切の余裕はないといった形相の人が
多いように感じました。

 

勝負事において感情の乱れは致命的です。

とくに焦りが出てくるとミスが起きやすくなりますし、
怒りの感情などによって自分自身で勝負に負けてしまうことも多くあります。

私は将棋やビリヤードをするのでこの感情の乱れに敏感です。

その乱れはちょっとした自分のミスによって引き起こされたり、
調子に乗れなかった時に起きやすい。

でも心に余裕を持つようにすると次第に自分のペースをつかめてきて、
ゲームにおいて特に「精神的に」優位に立てることが多いものです。


つまり「余裕」のようなことが絶対的に大事で、
急かせるような心の状態で勝負に臨むことは致命的なのです。

私の読んだビリヤード教則本(すばらしい内容)の先生は、

「ビリヤードのプレーは、普段の生活そのものです。

普段の生活がいい加減(めちゃくちゃ)で、細かいところに気を遣う必要があるプレーが
上手くいくということはまずありません。」

とよく仰っていました。


日常、特に「感情」を整え、余裕をもった態度で様々な事にあたりたいと思います。

今日も成功を祈ります、お読みくださり心より感謝します。

「精神的」自由を知る

スポーツをすることは楽しいですよね。

私もサッカー、水泳、ビリヤードなど、人生の中で
競技者としてそこそこ長くかかわってきたものがいくつかあります。

そのスポーツにはルールがあり、
そのルールの中でスキルを磨き、勝負でいかに勝つか、
というのが面白いのだと思います。

勝てばもっと強い人、高い目標を目指し、
負ければ、試合を反省し自分に足りないものを次回に向け、
備えていく。

また違う言い方をすれば高みを目指すという事は、
自由度が高くなるということです。

一定範囲のルールの中で、
相手よりもスキルが高く、様々な選択肢や柔軟な思考をもっていること、
それがスポーツ競技を優位にすすめられることなのかなと。

 


人生も同じようなことが言えるのかもしれません。

まず自分という与えられた持分がある。
ある意味制約であり、ルールということかもしれません
(国、故郷、家族、最初の環境など)。
カードゲームで例えれば配られた最初のカードです。

その中で最初は学校などの疑似社会に触れながら
、行く抜くためのスキルをつけていくわけです。

そして一定年齢に達したとき、社会との接点を見つけ「仕事」として
社会に貢献できるようになっていくわけですね。

だけど往々にして社会は複雑でいろいろな要素が混じってきます。
他人の行為などの不確定要素や自分の感情のブレが作用して
現実が見えなくなったりもします。


こんな中で自由を手にするとはどういうことでしょう。

まずは社会的地位の確立だとは思います。
社会的に見て一定の地位(居場所)にいられることによって、
(特に収入の面などから)自由度は増すでしょう。

ただ真の自由は「精神的自由」を得られるものの見方のような
ものかもしれません。

さきほどのカードゲームの例でいれば、まず配られた初期条件と
自分の正当なスキル・レベルを把握していること。
そこに対して淡々とアクション出来ることが精神的状態であると言えます。

それは与えられた環境をしっかりと自分のフィールドだと把握できる能力、
他人との関係性と自分の感情などのバランスをとれる能力でもあります。

「一定の制約の中での自由を感じられる」ということですね。

今一度自分の成長を見据え、「精神的自由」を改めて考えてみたいです。

信じ切る

勝負ごとにおいて「自分を信じ切れるか」が非常に重要です。

私は小さいころから将棋をやっていたので、勝負というと将棋に結びつきます。

プロの試合を見ていた時、その将棋を解説しているプロがこんなことを
言っていたのが印象的でした。

勝負をしているとき棋士として大切なことは、
自分の読み筋(勝負の先の展開の予想)を「信じ切れるか」どうかだということです。

戦略を立てる序盤(勝負の最初の局面)、水面下の様々な駆け引きがあり、
自分がある程度有利に展開できる展望が見えて中盤に臨みます。

実力が拮抗している場合、
ただ相手の考えていることもあるので、大抵局面は思い通りにはいかず、
難しい局面が何度も出てきます。

有利かと感じていたら、不利になっていたり、
不利だと思っていたら、有利になっていた。

その中で常に最善手を指し続けるのは至難の業です。

そんな状況の中で唯一のよりどころが「自分の読み筋」に対する信頼という訳です。
その自信が揺らいでしまえば、あっという間に相手に飲み込まれてしまうでしょう。

将棋をよく知っている、実践を良く積んでいるという事ももちろん大事ですが、
最後の最後は精神論、「自分を信じる」という事なのですね。

社会生活においても、同じ感覚が重要に思います。

人生の局面において一つ一つが判断や選択の連続です。

どんな学校に行くか?
どんな人と付き合うか?
どの会社に入るか?

などの方向性を決める大きなものから始まり、
日常の一つ一つの小さな瞬間の判断と選択の積み重ねが今の自分を作っています。

現状がいい状態であっても、悪い状態だと感じていたとしても、
今までの思考と実践の積み重ねで今があることを思い、
自分を信じ、行動することが大切ですよね。

今日も成功を祈ります、お読みくださり心より感謝致します。

疑似瞑想時間の発見

最近「瞑想」が大事ということが言われています。

一日一回でも、静かに一人の時間をもつ、ということが精神の安定に
すごく効果がある、ということはわかります。

最近それと同様な効果を持つものを再発見しました。

私にとってそれは(一人)ビリヤードだったり、水泳だったりします。

一人だと勝負が除かれるので、
一人淡々とテーブルにある球を落としていくことになります。

そんな行為は瞑想に近いなと感じます。余計な思考は入らないし、
自分の狙いと次のポジションに集中している状態、
それ以外の日常の雑念が入る余地はありません。

同様に水泳の時もそうです。

効率の良い自分のペースのゆっくりと泳いでいる時は、
自分が泳ぐ水の音とプール上に流れている音楽が聞こえるくらいで、
余計な雑念は入りません。これも瞑想に近いと感じています。

つまりこれらは、自分の思考がうまく切り替わった時、
一人の世界に没入したときに起こります。

それは日々のとらわれの中に、
ちょっとした自由を見出せるからなのかもしれません。

という事は、その人にとってのあらゆる趣味のような「息抜き」的行為が
一つの瞑想とも言えるでしょう。

私は仕事でデスクワークが多い(静的なこと)ので、
読書(静的)のようなものもいいのですが、
上記のような動的なものが切替(瞑想)にすごく相性がいいようです。

上手く疑似瞑想を使って、頭をリフレッシュさせていきたいですね。

今日も成功を祈ります、最後までお読みいただき感謝します。

Fair Play(フェアプレー)精神

刑事・古畑任三郎というドラマがありました。

高校時代友達から紹介され、すごくはまった思い出があります。

古畑任三郎の推理や犯人とのやり取りがすごく面白くて、
仲の良い友人と古畑役と犯人役で個人劇をやっていたほどです。

その中のスペシャルバージョンで、プロ野球のイチローさんが犯人役で出ていた
回がありました。

その設定は特殊で、犯人がその当時のスター・イチローで、
本人がそれを演じるというものでした。

そのドラマの中で印象に残る、かっこいいシーンがありました。

古畑任三郎が事件を推理していき、
犯人・イチローとの会話を思い出し、
犯人が一回もウソをついていないことに気づきます。

そこでこんなイチローとのやりとりがあります。
(まだ犯人がイチローだと確証がつかめていない状況で)

「この事件の犯人はすごく運動能力が高い人物。。さらに非常に『フェアプレー』を好む人物。。

私が仮に犯人に向かって『あなたは○○さんを殺害しましたか?』と聞いたら
その犯人は、きっと『はい』というでしょう。

でも私はそんな質問をしません。向こうが真っ向勝負をかけてきているのだから、
こちらも探偵の名誉にかけて推理でかならず犯人(犯行)のしっぽをつかんで見せますよ。」

周りを見渡してどうでしょうか。どれだけ「フェアプレー」がありますかね。

私はビジネス界にいるので、駆け引きや根回しの世界で難しいからなのかもしれませんが、ときにいるフェアプレー精神をもった人にはすごく尊敬の念を持ちます。

今までの人生の中で(実際あった人で)2,3人いたでしょうか。

年齢・経験の上下に関わらず最初から公平(フェア)に接する人
相手のステータスに関わらず公平(フェア)に接する人
性別・国籍に関わらず公平(フェア)に接する人

今一度フェアプレー精神を思い出してスカッと生きていきたいと思っています。

今日も成功を祈ります、お読みくださり感謝します。